正直に言うと、私は飽きていた。
私の作った曲を私が歌うことに。
もちろんすきでやってる。私の場合、ライブは日々の生活とは全く異質のもので、私を自由にする。ライブは実際に体がある場所から自由になることだ。「行きたい場所」と呼んでいるが、精神の中に場所みたいなところがあって、そこに行くために、丁寧に何曲かを歌い、そこにたどり着く。
最近は、その道順を知ってしまって、見慣れた道を進むのに飽きてしまったみたいだった。
長い間歌って培ってきた勘とすこしの技術とたくさんの集中力があれば、そこに行ける。
と思っていた。
カバー曲だけのライブを、しかもワンマンライブにしようと思ったのは、自分の曲を歌うことに飽きていたからだ。
せっかくなら誕生日にしてやろう。
それがいい。
と、思ったのだった。
決めた時は心からわくわくした。自分へのご褒美だ。好きな曲だけを歌える日なんて、最高だ。
しかし、本番前日の私は、猛烈に後悔していた。
「なんてこと決めちまったんだ。うあーー!!やべーー!!くそーー逃げたい!!」と思っていた。
他人の作った曲だけでライブをすることは、自分の作った曲を歌うライブとは全く違う行為だと気づいた。
今回の場合、
路上とか、流しとかでリクエストを聞いて演奏するのではない。
“私のライブ”で全曲カバー曲なのだ。
“私のライブ”である必要があると思った。白波多カミンのワンマンライブなんだもの。
そして、選曲をした曲を歌う必然性が必要だと思った。全曲に必ず。
好きな曲だからという理由の先に答えがある気がした。
どうすればライブが成立するのか、わからないまま当日をむかえた。
ライブが始まった。
ライブ中の私の頭の中はたくさんのことが並行していた。
あぁ、この曲は素晴らしい…このフレーズが最高なんだ。この曲はこのコードが、あぁ、そう、エロい。あ、この曲をよく聴いていたのは幼い頃だ、場所は車の中だ。この曲を前に歌ったのは、友達の結婚式だった。などなど。
お客さんが見える。聴いてる。私は歌っている。
私の個人的な記憶や気持ちが全ての曲にあり、それが私を支えて時間はあっという間に過ぎた。
ライブが成立していたか。
それは、分からない。
お客さんが決めることだ。
ただ、常に一瞬一瞬に夢中でいたことは確かだ。たとえば、「何故私はこの曲を歌っているのだろう」という気持ちになったりは一切しなかった。
それはすごく幸せな体験だった。ものすごく。申し訳ないくらいに。来てくれた人ありがとうね。一緒に居てくれて。聴いてくれて。うれしかった。
こうして、私の誕生日は終わった。
自分の歌を歌うことに飽きていた理由が分かった気がした。
自分自身に「白波多カミンはこういう歌を歌う人」というイメージがあり、その中から自由になれずにいたことなのだと思った。
確かに分かったことは、「行きたい場所」はひとつではないということ。また、道順は無数にあるということと、道でなくても進んで良いということ。
もう~飽きちゃったんだ~なんて言わないよ絶対~